おいじっちゃん、ありがとう。最後までかっこよかったよ。

 家族の間では、母方の祖父のことを「おいじっちゃん」と呼んでいました。どうして「おい」がついているのか。それは僕がまだ2、3歳くらい頃のお話になります。
 祖父は当時、大田区蒲田本町一丁目町内会の副会長を務めていました。今でこそマンションが増えてきていますが、蒲田という町は下町情緒溢れる場所。夏祭りともなれば、御神輿や山車が町内を周り、小学校の校庭にやぐらを建てて盆踊り大会をしたり、団地の前の公園で風船割り大会をしたり、そんな活気の溢れる町でした。そんなお祭りで、祖父はやぐらの上で太鼓を叩いていまして、そのおじいちゃんを呼ばせようとおばあちゃんが僕に
「お~い!じっちゃ~んて呼んでみな?」
と言ったのが、「おじいちゃん=おいじっちゃん」の始まりなんだとか。
 それから30年余り、それこそ昨日の日中まで祖父は「おいじっちゃん」と呼ばれることになったのです。
 あ、ちなみにおばあちゃんのことは「あっぷん」で、父方の祖父は「おじいちゃま」と、呼び分けていました。

 夏祭りといえば蒲田、というくらいに子供の頃は毎年お祭りに参加し、こどもみこしを担いだり、軽トラックを改造した山車に乗ったり。おいじっちゃんはそんな僕の面倒を見ながらしっかりお祭りのお仕事もこなしていた、かっこいいじっちゃんでした。
 ほら、お祭りの時に商店街の方々がお酒やお米なんかを町内会に納めて、その納めて頂いた内容を墨で半紙に書いて貼りだしたりするじゃないですか。おいじっちゃんは書道も上手で、副会長を務めていた間はそういった文字を書くお仕事もしていました。
 新宿稲荷神社の鳥居の手前、左手にある石碑の文字はおいじっちゃんの文字なんですよ。その反対側には絵馬をかけるところがあって、僕もつい数年前までそこに絵馬をかけていました。サインも書いて(笑)

 そうそうお祭りの時は東口商店街に屋台なんかもたくさん出ていて、ある年にはそこでベイブレードの大会まで開かれていましたね。僕はその日、別の会場での大会があったため蒲田の大会には顔を出せなかったのですが、その現場を担当した後輩が後から報告してくれた話によると、
「泰さんのおじいちゃん、ご挨拶にきてくださいましたよ」とのことで、なんかちょっと嬉しかったのを覚えています。

 自転車の乗り方を教えてくれたのもおいじっちゃんでした。
 多摩川の土手で、青い自転車にまたがりよたよた走るのを、後ろで支えてくれるおいじっちゃん。支えるには自転車と同じ速さで走らなければならないわけで、じっちゃんは息を切らせながら支えてくれていたのを覚えています。
 僕も自転車に乗れるようになると、じっちゃんと二人での移動はさらに多くなり、雑色商店街、マルエツ、東口商店街、ユザワヤ、サンカマタと、ありとあらゆる玩具の売っていそうな場所や、タイヤ公園みたいに遊べる場所へよく連れて行ってくれました。タイヤ公園のタイヤ怪獣はいまも健在らしいですね。元気でやってるかな?
 もちろん玩具以外のお買い物も行きましたよ? 商店街にあった「いまなり精肉店」にとんかつを買いに行ったり、酒屋さん兼お魚屋さんにお刺身を作ってもらいに行ったり、そのついでにビッグワンガムをかって帰っちゃったり…。

 ところでおいじっちゃんのお仕事は、電気関係の工事などを請け負う電気屋さん。「一丁目の鈴木電気」と言えば結構名前も通ったものです。
 そのお仕事現場にはSEGAさんや当時のナムコさんの建物もあったらしく、その流れから僕がはじめて手にしたゲーム機はSEGA1000Ⅱ。社割とかきかせてもらって買ってきてくれたのかな?
 ナムコさんの建物の工事をしていたときにはお仕事のたびにナムコさんの小冊子を持って帰ってきてくれたり、PCエンジン版スプラッターハウスや妖怪道中記なんかを買って帰ってきてくれました。
 その後、お年玉で初めて買ったゲーム機のメガドライブを起動させたのもじっちゃんの家。初めてプレイしたタイトルは、同梱されていた「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」。電源を入れて「SE~GA~」が聞こえてきたときは驚きましたね~。(「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」にはその後、ご縁がありましてアニメ版のレオンという役で出演させていただいております。)

 模型雑誌との出逢いも、実はおいじっちゃんがきっかけなんです。
 当時、ご近所さんにモデルグラフィックスの関係者さんがお住まいだったらしく、ふと一冊のモデグラをもらってきてくれたんです。そのときに見た作例は今でも忘れません。「ガンダム・センチネル」のワイバーン。作例というかもうフルスクラッチ作品だったのですが、当時の僕がそんなことも知るわけも無く、そこからたまに模型雑誌を買うようになり、現在にまで続いているんですね。

 さらに模型と言えば、RX-78ガンダムをはじめて作ったのもじっちゃんの家。いわゆる旧キットという真っ白なキットです。夏休みを利用して、初めて塗装までしたプラモで、そこから宇宙戦艦ヤマトなど様々なキットを作り始め塗装を行うようになっていきました。と、いっても当時なんて接着剤ベタベタ、筆塗り塗装も雑でとんでもない完成品でしたけどね。いまだにじっちゃんの家に飾ってあります。(はじめて作ったガンプラとなると、父と一緒に作ったフルアーマーガンダム)

 振り返ってみると、超合金やトランスフォーマーなどの玩具のほとんどはおいじっちゃんに買ってもらったものだということに気づきます。もちろん、「おじいちゃま」や両親が買ってくれたものもありますけど、買ったときの印象だとか買った後すぐにじっちゃんの家で遊んだ時のこととか、たくさん覚えているんです。
 
 甘やかすだけ甘やかしてくれたんだな~。

 その、おいじっちゃんの好きなものと言えば、日本酒! お休みの日はお昼から飲んでいました。だからいつでも飲めるようにお台所にはストックがた~っくさん!
 僕が二十歳になって、一緒にお酒を飲む時間が持てた時は嬉しかったな~。小さい頃から夢でしたから。おいじっちゃんと一緒にお酒を飲むのが。
 あとはお風呂の中で、歌をうたったり、民話や童話、戦時中のお話を聞かせてくれるのも好きだった。正直、内容は断片的にしか覚えていないんだけど、僕はあの時間そのものがとても好きでした。

 そんな、大好きなおいじっちゃんが数時間前に息を引き取りました。
 夕方に面会しに行ったときは、起き上がりはできなかったものの、顔色もよくって、しっかり呼吸もしてて、とても容態が悪くなっているようには見えませんでした。
 しかし何故か「今日は仕事が終わったら絶対に面会にいかなくてはいけない」という気がしていたんです。普段なら、母なり両親と待ち合わせて面会にいくのですが、予定が合わずに今回に限って僕一人でした。
 声をかけてもあまり反応はなく、まぶたも少しだけ開いているだけでしたけど、わずかにわかる目線の先に僕の顔がくるようにして、話しかけたりしながら手を握って一時間。
「顔色いいじゃない」「看護師さんがちゃんとキレイにしてくれてて、よかったね」「しゃべらなくっても大丈夫だよ?わかってるから」・・・様々な言葉をかけました。
 その中で、最後にかけた言葉は
「おいじっちゃんは、今も昔も変わらない。カッコいいね」


 その後、事務所に寄ったりしながら帰宅すると、父から電話があり「いま、どこにいる?こっちも今から病院にいくから来てくれ。」

 信じられませんでした。さっきの顔色は、それこそ病院に入る前の頃のじっちゃんの顔色だったし・・・。
 病院に駆けつけると、看護師さんが
「日中、面会にこられていた方ですよね。お帰りになられた直後は声をかけるとお返事もあったんですけど、21時頃から急に呼吸のほうが乱れ始めまして…」




 案内されたのは、先ほど面会をした部屋ではなく個室で、すでに両親は駆けつけていました。
「いまにも、おう!って言い出しそうな顔してるよ」という母。
 本当にそうでした。だから、まだ「さよなら」は言っていません。悲しいのかどうかも、今はわかりません。受け入れたくないだけなのかもしれません。
 こうして思い出を引き出して、今もあの時と同じだと思いたいだけなのかもしれません。

 でもね、さっきもベッドの横で言ったけども、これだけは言うね。

おいじっちゃん、ありがとう。
おやすみ